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白山神社本殿(重要文化財) 昭和33年5月14日指定・ 杮(薄板)葺附棟札四枚(永正12年、文禄5年、寛永8年、貞享5年) 明応年間(1492~1500)の火災により焼失した社殿を同地に再建したのが、この本殿である。棟札、墨書等から、永正12年(1515)の造立、文禄・寛永・貞享・元禄・文化・明治・大正・昭和年代の大小修理を経ていることが知られる。 三間社は社殿正面の柱間の数が三つのもので一間社、五間社もある。又、流造は前方の屋根が穏やかな反りをもって、流れるように庇の部分に延びてきているもので、 神社形式の最も一般的な形であるが、三間社流造の前面に一間の向拝(礼拝する場所)がつくものは少なく、本殿の形式、規模の大きさは地方では珍しい建造物である。本殿の組物、蟇股等は室町時代の特色(禅宗様式)をよく示し、和様(古来からの様式)を主体とした手法の中に唐様肘木(上からの荷重を支える横木)を使っているのが注目される。 寛永時代、向拝部に海老虹梁(高低差のある所に湾曲して架した化粧梁で、鎌倉時代から禅宗建築に用いられた)が附け加えられ、更に貞享時代には桁以上の軒廻り及び小屋組・床・縁・高欄が一新される等の大修理が行われた。昭和35年~36年の解体修理では、身舎(母屋)の円柱及びその上の組物は造営当初のまま保存された。 この時、旧本殿のものと判断される円柱当り型のある火中した礎石が四個発見されている。 |
尾山の旧社殿跡 能生白山神社文化財ニュース第22号(平成2年)に詳細に記載されている。尾山には、文亀3年(1503)造立の剱社の礎石と炉の趾、三間社(旧本殿)の礎石(由緒より、平安時代か)、小泊六社人の屋敷跡が残されている。 経石(四個)と経石壷 壷は固く室町時代のものと考えられる。経石四個は各々に梵字が一字書かれている(経石:小石に経文を墨書したもの)。尾山出土品。 釈迦三尊十六善神像図(絹本着色):縦124cm、横58.5cm。 ![]() 目の粗い絹地に多色で描かれ、又、金が種々の使い方(截金、盛り上げ、截金箔)で使用され、室町時代末期の作と考えられる。(截金:金などの箔又は薄板を線状などに細かく切り、これを貼付して種々の文様を施す技法。平安~鎌倉時代に盛んに行われた。)台座上に結跏趺坐する釈迦如来坐像を中心に、釈迦の右下方に獅子に乗る文殊菩薩(知恵の菩薩)、左下方に白象に乗る普賢菩薩(慈悲の菩薩)が描かれ、台座前には玄奘三蔵、朱身の深沙大将等が、台座の左右には十六善神が対称に描かれる通常の図である。十六善神は「大般若経」を読誦(経を読み唱えること)する人を守護する護法神とされる。 秋葉神社 秋葉神社は江戸時代薬師如来を祀り薬師堂と称呼されましたが、明治維新の廃仏毀釈により薬師如来は光明院に遷され、新しく神殿が設けられ、火難の守り神を祀る秋葉神社として信仰されるようになりました。 平成19年7月、中越沖地震により被災しましたが、大勢の崇敬者の人々の御浄財により、 平成20年4月、再建が成されました。 平成の再建に先立ち、下記にあげる年代の再建記録が残されています。 慶長19年(1614年)・享保12年(1727年)・天保13年(1842年) 又、明治30年には屋根が茅から瓦に葺き替えられています。 秋葉神社の雲竜図 修復された雲竜図 入口土間(間口四間・奥行き一間)の天井板全体に墨で描かれてれている。江戸末期、能生に住んだ旅の絵師「米庵」が画いたとされている。 春季大祭・舞楽関連文化財 舞楽舞台・橋掛り:舞楽は大祭の都度池の上に舞台を組み立て、御旅所(建物の左半分は楽屋)から舞台まで橋を掛け行われる。舞台再建は享保12年(1727)、宝暦5年(1755)、文化11年(1814)に行われ、明治4年に修理が成されている。舞楽が舞台で行われるようになったのはいつ頃からか資料が無く定かでないが、天和3年(1683)に御旅所再建の記録があり、このことから少なくとも江戸時代初期には御旅所から舞台まで橋が掛けられ舞楽が行われていたと考えられる。 舞台・橋掛りは昭和60年国庫補助により修繕され、安永4年(1775)再建の御旅所は平成3年、氏子の寄進により新築された。舞台上部の様式は本殿の建築に類し室町風(柱上部の巻斗・頭貫、中備の蟇股・懸魚など)である。舞台四方の守護神である竜頭が四個ある(享保17年・1732 木製で同一)が、大祭の日に出すと雨を呼ぶという言い伝えがあり、相当以前から使用されていない。 赤熊(しゃぐま) ![]() 陵王の舞で使用。 ① 元和4年(1618年) ② 元文3年(1738年) 元文3年の赤熊は現在も使用されている。 舞楽古衣裳 元文5年(1740)岡本五右衛門寄進の墨書がある薄絹織(糸目糊置挿友禅染、文様・四季草木御所解模様)、同年・同寄進の胴着(本紅花染薄絹)、大正時代の児抜頭用差抜・胴着、稚児胴着四点が残されている。 天冠(四個) 桐製収納箱蓋裏に享保7年(1722)岡本五右衛門寄進の墨書がある。 平成初期まで使用した。 水引幕 収納箱表面に文政5年(1822)岡本五右衛門寄進の墨書がある。舞台四方柱上方で四方に回し、横に張る細長い幕。岡本家と白山神社の紋が入る。) 御祭礼用幟(大旗) 安政5年(1858)当所四十物中(塩魚商)寄進の字が旗に明らかである。(能生川岸に50mの大鯨一匹打ち上げられ、これを記念して奉納した。)緋色無地の羅紗地に銀糸太糸で駒刺繍されている。 旧獅子頭 江戸時代の仏師・新左衛門の刻銘あり。御神嚮の先導で舞う。 神輿四体 三体は春季大祭で使用され、安政5年(1858)大阪心斎橋本町・鎌田常右衛門の作。 一体は祇園祭で使用されるが、文化5年(1808)に新しく造り替えられ(大工・能生町伝蔵)、明治42年に修復されている。 汐路の鐘碑: ![]() 汐路の鐘碑:岡本五右衛門憲孝(九代)が文政5年(1822)に建立した。碑の文面の中に次の様に書かれ、「汐路の鐘」(県指定文化財)の名称の由来が分かる。「此鐘汐の満来たらんとて人さはらすして(触らないのに)響こと1里四面(四キロ四方)、さる故に此浦は海士の児まても自然と汐の満干を知り侍りし」汐路の鐘碑の掛軸:碑建立の由来が高田藩士平北共により書かれている。(文政5年・1822) 花本大明神碑 ![]() 「花本大明神」は、芭蕉150回忌(天保14年・1843)に朝廷から芭蕉に贈られた神号で、「花本」は「花の下」から転じた語。碑は嘉永3年(1850)岡本五右衛門憲孝(俳号・姫山)・憲明父子により南梨平の才蔵山に建立された。揮毫は憲孝と親交のあった江戸の俳人・田川鳳朗。平成3年4月、芭蕉・奥の細道行脚300年を記念し、地権者の協力を得、賛同者の浄財で現在地に移された。 加州三度会所石燈籠 ![]() 寛保3年(1743)の建立。高さ3m46cm。燈籠火袋南面に加賀藩の梅鉢紋、北面には能生白山神社の社紋・左三つ巴紋が入る。奉納者は加州三度会所当所氏子中で、これは加賀藩が金沢と江戸との通信に設けた月三回定期の飛脚の詰所に当たる。いい伝えでは、宝暦元年(1751)の名立崩れの時、加賀の殿様が白山権現のお告げにより助けられたお礼に献納したとされるが、名立崩れが燈籠建立年月より8年遅く時代が合わないようである。 社号額 「白山大権現」:130cm×76cm 文政13年(1830) 額字・御室御所(仁和寺)総法務宮(済仁法親王か)額寄進の詳細不明 「白山大権現」:99cm×65cm 享保15年(1730) 額字・左文山(佐々木文山・江戸中期の書の大家) 岡本五右衛門の寄進 「弁財天」:79cm×52cm享保15年(1730)額字:左文山 「白山神社」:143cm×83cm 明治37年 額字・15代将軍徳川慶喜 扁額 「萬國咸寧」(世の中が遍く安らかであるように) :明治23年 元田永孚筆(幕末・明治の漢学者。枢密顧問官を務め、帝國憲法成案に参画した。 「祥雲瑞気」(めでたい雲が現れ、めでたくおごそかな雰囲気である) :明治26年 前島 密筆(郵便制度の開祖 上越市出身) 狛犬 ![]() 石造一対:安政4年(1857) 小見村中・地引網連中の寄進 木造二対:一対は鎌倉あるいは室町時代の作。 柄鏡 直径24cm 柄のついた円形の銅鏡で、藤原吉重の銘が入っている。藤原吉重は江戸前期の鏡師である。 その他 刀剣類・兜・鞍・鐙 古文書 大祭・舞楽関連:「御祭礼入用帳」安政2年(1855) 「桟敷場貸附証文」安政5年(1858) |

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![]() 陵王 |
糸魚川・能生の舞楽(重要無形民俗文化財) 昭和55年1月28日指定 獅子舞 振舞 候礼 童羅利 地久 能抜頭 泰平楽 納曽利 弓法楽 児抜頭 輪歌 陵王 糸魚川市の糸魚川地区天津神社と能生地区白山神社に伝えられている舞楽は、共に大阪四天王寺の舞楽を伝承しているものと云われ、糸魚川天津神社では4月10日・11日、能生白山神社では4月24日、各々の祭礼の日に境内の舞台で演じられている。 能生の舞楽は室町時代の永享年間(1429~1440)、能生の重立衆が大阪四天王寺より習い伝えたとされ、長い年月を経て、中央とは異なる、能生の風土に培われた姿の舞の形で演じられている。 大祭の日、午前中は獅子舞が御神嚮行列の先払いとして舞われ、午後は特設された水舞台で十一の舞楽が日没まで演じられる。 振舞・候礼・童羅利・地久・泰平楽・弓法楽・児抜頭・輪歌は稚児五人により、能抜頭・納曽利・陵王は成人男子により演じられる。 |
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能生ヒメハルゼミ発生地(天然記念物):昭和17年10月14日指定 日本に産する蝉は33種あるが、中でもヒメハルゼミは最も小さい仲間に属し、本州中央部より琉球列島に至る地域に分布し、本州では限られた地域にしか生息していない珍しい蝉である。シイ、カシの樹液を吸って生息する為、白山神社々叢(尾山)のアカガシの純林は好生息環境地となっている。能生では神社々叢が唯一の生息地である。神社々叢は日本に於けるヒメハルゼミ発生の北限地であり、又、本州日本海側のヒメハルゼミの発生地としては、当神社々叢の他に兵庫県城崎温泉付近があるのみである。 |
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能生白山神社 白山神社の裏山は神社の境内で、権現山或いは尾山と言われる。 尾山は地域の人々の篤い信仰心によって守られ、一木一草をも大切にされ、数百年來の自然が保たれて来た。 尾山は標高90m、面積約3.5ヘクタールあり、基岩は輝石安山岩質の集塊岩で、対馬暖流の影響で暖地性樹種(ツバキ、アカガシ、シロダモ等)が多生し、寒地性樹種も混在し、北越海岸地方の植物分布の特徴がはっきり現われている極めて稀な林相を示している。 暖地性シダ類(フモトシダ等)の日本海側に於ける自生地の北限であり、亜熱帯性の昆虫や珍しい陸産貝類(エムラシーボルトコギセル等)も生息している。 |
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木造 昭和25年8月29日指定 (明治39年国宝指定から指定替えになる) 平安後期の作で、桜材の一木造り。内刳が施され(後頭部から裾にかけて背中を細く刳りとってある)、素地仕げ、像高1m4cmである。頭部の宝髻(頭上の結いあげられた髻)は垂髻(平安後期の低く結って髪束を垂らした形)で、天冠台をつけ、首はやや前屈し、袈裟は左肩より斜めにかかり、両肩より天衣(上半身に着ける衣)は膝まで垂れ、腰に裙子(腰に巻く裳のようなもの)を着ける。 姿勢、服装、腰裳、顔、目、唇等は藤原時代の特徴をよく表し、清楚にして、温和な気品あふれる観音立像である。 頭部の枘穴から仏首が植え付けられた十一面観音が、又、両肩に千手脇手取り付け痕がみつかり、もとは十一面千手観音であったと考えられている。 両上膊以下を亡失する。 全体の虫食い損傷が著しく、昭和28年12月修理がなされ、欠損部(両足首以下)が後補され、台座が新造された。 聖観音は手に蓮茎を持つ観音菩薩である。 |
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昭和51年3月31日指定 高さ1m7cm、横径68.4cm、約2/3高で上下に割れている。鐘の周囲の銘文によると、この鐘は白山権現の別当・能生山大平寺の鐘で、明応8年(1499)能登国仲居浦(現穴水町)で鋳造され、延宝8年(1680)大雪の為に破損するも、元文5年(1740)柏崎で鋳直された事が知れる。現在の破損状態は明治初年の廃仏毀釈(仏法を廃し、釈尊の教えを棄却)の時になされたと伝えられている。 芭蕉が奥の細道行脚の途次能生に宿泊しているが(元禄2年・1689)、この時この鐘の話を聴き、詠んだ句の句碑が能生白山神社境内・社務所の前に建てられている。 |
白山神社神仏像群 四十三軀(平安・鎌倉・室町時代) 昭和47年5月12日指定 (1)木造 不動明王立像:像高94cm 藤原時代末 一木造り (2)木造 不動三尊立像:像高・不動像52.4cm・制咤迦童子28.8cm (4)木造 男神像:像高59cm 鎌倉時代 虫食い多い (5)木造 菩薩立像:像高49cm 鎌倉時代後半 (6)木造 菩薩立像:像高42cm 室町時代 一木造り (7)木造 菩薩立像 二軀:宝髻あり31cm、なし27.5cm 室町時代 (8)木造 菩薩立像:像高35cm 鎌倉時代 虫食い多い (9)木造 菩薩坐像:像高24.2cm 鎌倉時代 光背附属化仏 (10)木造 僧形八幡神像:像高17cm 室町時代末~桃山時代 (11)木造 飛天像:頂上より足まで35cm 鎌倉時代 一木造り (12)木造 如来坐像:像高13.5cm 室町時代 光背附属化仏 (13)木造 小仏像 七軀:像高13~11cm 桃山時代~江戸時代 (14)木造 地蔵菩薩 七軀:像高15~12.3cm 江戸時代
(16)銅造 菩薩坐像懸仏:鏡径30.7cm 像高17.0cm (18)銅造 不動明王坐像:像高19.5cm 鎌倉時代 懸仏附属仏 発掘仏 (19)銅造 不動明王坐像:像高11.2cm 平安時代 懸仏附属仏 発掘仏 (20)銅造 菩薩坐像::像高11.5cm 室町時代 懸仏附属仏 (21)銅造 薬師如来坐像:像高12.7cm 鎌倉時代末 懸仏附属仏 (22)銅造 観音菩薩立像:像高23cm 鎌倉時代 懸仏附属仏 発掘仏 (23)銅造 菩薩立像::像高3.8cm 鎌倉時代 発掘仏(25)と一緒に出土 (24)銅造 獅子頭:7.8cm 鎌倉時代 懸仏附属物 (25)銅造 力士像:像高13.5cm 発掘物 〖これらは全て白山信仰関連遺品であるが、銅造11点の中、懸仏とその付属物は 八稜鏡・円鏡(平安時代後期):昭和47年5月12日指定 拝殿一棟(江戸時代中期):平成6年7月22日指定 入母屋造妻入茅葺・桁行八間・梁間五間 棟札一枚(室町時代):昭和59年5月29日指定 剱社造立(文亀3年5月・1503)の棟札。文面に「奉造立剱御前壱間四面宝殿」と書かれている。剱社は、御剱大権現・大巳貴命・本地不動明王を祀る社殿で、その社殿跡は尾山東方、小泊方面に下がる峰の左手平地がその場所であったとされている。 朱印状十ニ通(江戸時代):昭和59年5月29日指定 白山権現に五十石の領地を下附する旨の朱印状。徳川三代将軍家光より慶安元年(1648)に下附され、以後、代々の将軍(四代家綱・五代綱吉・八代吉宗・九代家重・十代家治・十一代家斉・十二代家慶・十三代家定・十四代家茂)により下附された。徳川家以前の五十石寄進状が二通残されている(大久保石見守長安・松平越後守光長)。 紺紙金字大般若経一巻(平安時代後期):昭和47年5月12日指定 長さ982cm、巾25.5cm。従来紺紙金字一切経の一巻とされてきたが、大般若経六百巻の中の一巻と考えられる。装丁は巻子装で、表紙には金泥で宝相華唐草文(蓮弁に似た形で、鎌倉時代まで用いられた)が、表紙見返し(表紙裏)には経意絵(釈迦説法図)が描かれている。又、経軸の軸端には金銅製魚々子地撥型軸が用いられ、平安末期の装飾経の形態をなしている。巻紐は後補のものである。巻尾には奥書が書かれておらず、書写名、願主者名などは不明。能生白山神社には「大般若経」読誦守護する十六善神の画像(釈迦三尊十六善神像図・その他の文化財に掲載)も残されている。 |
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能生白山神社の海上信仰資料(重要有形民俗文化財 江戸時代中・後期、明治時代) 昭和62年3月3日指定 船絵馬93点 船額4点 この指定に先立ち、白山神社の拝殿にあった船絵馬が日本で唯一の「はがせ船図絵馬」(明和3年・1766)であることが確認され、昭和44年3月県文化財に指定された。 拝殿外陣の屋根裏にあった大量の船絵馬については、昭和61年詳細な調査が国により行われ、62年、「はがせ船」を含め重要有形民俗文化財の指定となった。 平成2年~4年にわたり奈良県元興寺文化財研究所で修理がなされ、宝物殿に保管されている。97点の中、年号のあるものは37点で、中でも宝暦2年(1752)、同3年、明和年代(1764~72)のもの12点の計14点は現在のところ、青森県深浦町円覚寺所蔵の「北国船」船絵馬(寛永10年・1633)に次いで古い日本の船絵馬である。 「はがせ船」はハガイソ、羽ヶ瀬等とも書かれ、鳥の「羽交」に似ているのでこう呼ばれたといわれる。走行は帆(莚)と櫓で行い、水夫(乗員)を多く必要とした。 |
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舞楽面 五面:昭和56年3月27日指定 陵王二面(室町時代・15世紀) 納曽利二面(鎌倉~室町時代) 附 能抜頭一面 白山神社舞楽11曲のうち、面使用は童羅利・能抜頭・納曽利・陵王の四舞楽であるが、童羅利以外の面が県文化財指定を受けている。これらの指定を受けた面は、昭和末期まで大祭当日使用されたが、平成に入り、新しく製作した新面で舞楽を演じている。陵王:二面共、漆箔仕上げで檜材製。一面の裏面に「・・日光寺 寛正六(1465)・・大工国重・・」の朱塗銘があり、原所属、製作年、作者名を知ることができる。頭上の龍の両後肢に翼がつき、目の丸さが強調され、地方作と考えられている。他の陵王面も室町時代作であるが、動眼・吊顎の伝統的構造である。陵王面に伴って舞手が頭部に被る「赤熊」(赤く染めた動物の毛)が二個残されている。一つの裏には元和4年(1618)寄進の墨書があり(写真48)、他には元文3年(1738)寄進の墨書がある。後者は現在も大祭の時使用している。納曽利:二面は同作と思われる。共に広葉樹材製(樟材か)で、胡粉地に墨塗り仕上げである。両面共、裏面額部に「日光寺」と朱塗書した痕跡がかすかに認められ、寛正6年銘のある陵王面と同年代の鎌倉~室町時代作と考えられている。能抜頭:樟材製で、黒漆地・朱塗彩。口を結び、眉太く、目じりを吊り上げ、鼻の高い面である。通常の抜頭面と形が異なり、江戸時代の民俗面とみられる。 |
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木造 昭和56年3月27日指定 像高63.9cm。檜材の寄木造りで、内刳、彩色がなされ、後頭部内刳面の墨書により、大永4年(1524)の造立が知れる。 本像は造立時代の肖像彫刻に共通する木寄法に則って造られているが、玉眼を用いず、やや細かな平ノミ目を残して仕上げているのが注目される。 伝統的形式にならいながら、地方的素朴さがみられる像である。 白山の開創者と伝えられる泰澄の像は、他に、福井県の大谷寺像(重要美術品・明応2年・1493造立)、同県の泰澄寺像などが知られ、絵画にも表されている。 造立年代の明らかな泰澄像の中で、本像は古い時代に属し、貴重な像とされている。 泰澄像の持物・表情は定型化していないが、本像は左手に袈裟の端(欠失)、右手に五鈷杵(法具・金剛杵の両端が五叉に分かれたもので、後補された)を持ち、表情は二重瞼で、眉をわずかに寄せ、面を伏せ気味にし、独特な僧形像である。 |
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昭和56年3月27日指定 総高42.5cm、像高35.8cm。地髪上に阿弥陀化仏および十一面を取り付けた枘穴が残る。頭から両足まで一鋳し、台座は別鋳。 火中(火災に合う)のため、背面、下半身などに破損が目立つ。鍍金(金を用いて銅に焼付けめっきする)が所々に残る。破損の目立つ像であるが、洗練された平安後期の様式を示す小銅像で、顔が小さく細身の体躯がすんなりとのびる。 衣文は細い線で簡潔に表され、裾の広がりが像に軽やかな感じを与えている。台座は平安後期のかたちを残し、像とよく調和している。 能生白山神社所蔵の白山信仰関連遺品の中に小金銅仏(銅造に鍍金の仏像)が12体あるが、その中でもこの像は、本格的藤原様式を示す仏像として注目される像である。 本像は昭和51年に奈良国立博物館で開催された「平安鎌倉の金銅仏」展に出陳された。 |